善意だけじゃ何も出来ない
◆某月某日
カンボジアに来て、はや四ヶ月、ここでの用事もようやく終り(ブルドーザーの件)、来月にはシェムリアップに行けそうです。このブルの件ですが、日本からのお金で無事に購入されはしたのですが、実際に稼動するかどうかは依然不透明なままです。実際にブルの維持管理にあたるのは、こちらのローカルNGOなのですが、稼動のための燃料費やその他諸々で、月に四〇〇jはかかります。これを捻出するには、このブルをレンタル等の商用目的に使い、その収入を稼動費に充てるしかないんですが、果たしてどうなることやら…。
結局、かなり資金が豊富な、大きなNGOならともかく、そうでない所にむやみにハード面で援助してもあまりいいことはないんじゃないか、と思います。普通は稼動計画や予想されるコスト、費用対効果なんかを考えて支援の要請を出したり(食料等の緊急援助は別。こういうのは待った無しですから)するもんだと思いますが、ここカンボジアでは「駄目で元々、もらえればラッキー」という感覚で要請を出すことが、割と普通にあります。
もともと伝統的に「持てる者は持たざる者に施すのは当たり前のこと」という国です。支援要請もそんな感覚で出しているのだと思います。
もちろん、文化的にそういう国だからっていうことだけではないと思います。九〇年代初めに内戦が終結し、この国が復興に向けて動き出した時、日本を含め諸外国から沢山のNGOが来て、様々な援助をしました。その中で少なからず、いい加減な援助もあったと聞きますし、援助の金がきっちり使われなかったこともあったと思います。「とにかく支援を」ということでお金を落とし、結局支援される側の金銭感覚を狂わせてしまったことも容易に想像できます。まあ、なんであれ「何とかしよう」と思って色々やった人達のことを否定する気はありませんが、「外国人は言えば出してくれる」という感覚が残っているのも事実だと思います。
そんなことを言うと「それは支援される側の甘えだ」と思う人もいるでしょうが、いかんせん彼等にとって、やっぱり日本は「夢の国」です。確かにカンボジアから比べれば、日本ははるかに恵まれた国です。例えば僕ぐらいの年齢で外国ほっつき歩ける人間なんて(近隣諸国への出稼ぎを別にすれば)、カンボジアじゃ本当に一握りのエリートだけです。物質的な面を見ても、比較するのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの格差があります。ただ、最近こちらの人と話してて感じるのは、彼等にとって日本とは物質的に恵まれているとかそんなレベルではなく、本当に極楽浄土だと認識されているのではないかということです。実際日本に行ったことがあるカンボジア人と話した時のことなんですが、彼が日本に行って一番びっくりしたのは、日本にホームレスがいたことだそうです。「いくら日本だからって、雨の代わりに金が降ってくるわけじゃないんやで」って思ってしまうこともありますが、そこまで極端でないにしても、彼等にとって日本は、そんな国なのかなと感じます。「援助する者」と「される者」のギャップと善意だけじゃ何も出来ないということを改めて感じました。
ちなみにこの時期、カンボジアは虫の季節です。色々な虫が一斉に成虫になるらしく、そこらじゅう虫だらけです。もちろん僕の部屋も例外ではなく、アリやバッタ・蛾・小さな甲虫、なぜかアメンボまで、様々な虫が我が物顔でのさばってます。その数、かるく一〇〇匹以上。体の上で散歩したり、噛んだり刺したりと、好き勝手やってくれます。はじめはせっせと退治してましたが、あまりにも圧倒的な敵の物量に閉口し、今はもうあきらめてます。「もう好きにしてくれ」って感じで。おかげで体中虫刺されの痕だらけです。ではまた。
(U)
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