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2016/1/18更新

2016新年対談

いよいよ 面白くなってきた
アンダークラスの視座から撃て

廣瀬 純 (龍谷大教授)×小泉 義之 (立命大教授)

2016年は、世界的な株安で明けた。日経平均は5日連続で下落、NY株は年初から千j超の下落だ。昨年は、戦争法反対デモが高揚し、「政治の季節」を予感させたが、2016年は、経済の混乱がこれに拍車をかけそうだ。

人民新聞新年号は、左派大学人を代表するお二人の対談とした。フランスでの大量殺人事件の分析から始まり、社会変革の主体形成まで、ご両人の分析と見解を聞いた。月20万円以下のアンダークラスが、階級形成されるには、福祉制度要求では決定的に不十分であること、さらに経済的「基底」に深く根差した仕方で運動を構想する力量が問われていることなどが語られた。2回に分けて掲載する。(文責・編集部)

※ ※ ※

廣瀬…新年1月に刊行する本(『資本の専制、奴隷の叛逆――「南欧」先鋭思想家八人に訊くヨーロッパ情勢徹底分析』航思社)のため、僕は8月中旬から1カ月、スペイン、イタリア、ギリシャを巡り、8人の論者たちに今日の欧州情勢についてインタヴューしてきました。

ギリシャでは、債権者トロイカから提案された「覚書」の受け入れをめぐる国民投票が7月5日に行われ、反対票が60%に達したにもかかわらず、その後の交渉で、シリザ政権がその「覚書」をほぼそっくりそのまま受け入れてしまった。アレクシス・ツィプラス首相が自分たちの行った交渉について国民の是非を問うとして辞任を表明し、9月20日の総選挙実施が発表されたのは、ぼくが欧州入りしてすぐ、8月20日のことでした。

また、これまではレバノンなどの隣国に逃れていたシリア難民が新たに欧州に大量に逃れてくるという動きが本格化し、これに対してハンガリーのオルバン政権が弾圧を加えたり、逆に、ギリシャ人民に対してたいへん厳しい姿勢を示し、そのことでドイツの欧州での覇権を確立したメルケル政権が、難民受け入れでもイニシアチブを発揮し、ドイツの覇権がさらに堅固なものとなり、これに慌てたオランド政権が、中東やアフリカでのフランスの軍事展開をこれまで以上に強化し始めるといったこともありました。

すでに邦訳書もあるフランコ・ベラルディ・ビフォやマウリツィオ・ラッザラート、最近『逃走への権利』という移民論が日本語に訳されたサンドロ・メッザードラなど、今回のインタヴュー相手はみな、情勢をしっかり分析した上であくまでもその分析に基づいて政治理論を展開する人々です。彼らには、したがって、以上に概観したような状況を踏まえてそこに含まれる問題や可能性について語ってもらいました。

反対に、今回の本にはフランス人へのインタヴューはひとつも含まれていません。僕はフランスに留学し、ジル・ドゥルーズやミシェル・フーコーなどのフランスの現代哲学を学んできましたので、知的な面ではフランスに育てられたようなものですが、いよいよ、話を聞いてみたいと思える人がフランスには誰もいなくなってしまった。ひょっとするとこれは、ぼく自身がフランスに対して一種の「反抗期」に入ったとも説明できることなのかもしれませんが、とにかく、今日のフランス知性に興味がもてなくなってしまっています。その理由を少し話しておきたいと思います。

昨年1月のシャルリ・エブド襲撃事件の時には、全国で350を数えるとも報じられた大量のフランス住民が「私はシャルリ」なる馬鹿げたプラカードを掲げて、オランド大統領やネタニヤフ首相をはじめとした国家元首たちと仲良く一緒に行進する、という唾棄すべき現象がありました。また、11月の大量殺戮事件についても、その3週間後に実施された地方選一次投票では、東方の蛮人がヨーロッパの白人社会を侵略しつつあるという「文明の衝突」論風な迷妄を掲げた「国民戦線」が、フランス本国13地方のうち6地方で極右が首位に立つという結果になりました。事件現場に設けられた犠牲者を悼む献花台には「テロを怖れない」といった文字が踊っています。

2004年3月にスペインで同じような襲撃事件(マドリードとその近郊で同時に列車が爆破された事件)が起き、190名を超える死者が出た時には、今日のフランスとはまるきり異なる状況が産み出されました。「お前たちの戦争、私たちの死者たち」というスローガンの下、マリア=ホセ・アスナールを首相とした当時の国民党政権に対し大規模な抗議デモが展開されたのです。前年にアスナール政権は大多数のスペイン住民の反対にもかかわらずイラク派兵を強行したのですが、スペイン住民たちはその責任を追及した。事件の3日後に実施された総選挙でも、イラク撤兵を公約に掲げた社会労働者党が勝利することになりました。 すべてが今日のフランスとは正反対です。フランス人民は、11月の事件の数日後、とりたてて反対運動もすることもなく、シリア・ラッカにあるイスラーム国の拠点への報復爆撃をオランド政権に易々と許してしまったのです。

今日のフランスの状況は、2001年9月11日からアフガニスタンそしてイラクへの武力侵攻へと向かう米国のそれに似ていると言えるかもしれませんが、当時の米国には少なくとも、ブッシュ政権とそれを支えるネオコン勢力とに対するリベラル派知識人たちからの大きな反発がありました。しかし、今日のフランスからはそうした知識人たちの声もほとんど聞こえてきません。それどころか、たとえば、存命する最も優れた哲学者として誰からも尊敬されているジャン=リュック・ナンシーですら、11月の事件の数日後にその開催が予定されていた彼自身の仕事をめぐる学術会議の決行を発表する際に「テロを前に怯まない」「テロを怖れない」といったことをその動機として挙げ、さらにはまた、その時期に行われインターネット・ニュースサイトに掲載されたインタヴューでも、事件についてそれが「戦争とも言えるし、戦争ではないとも言える」とした上で、戦争ではないと言えるのは「戦争とは国家間の紛争のことだが、イスラーム国は国家ではないからだ」と語っています。フランス国は国家だが、イスラーム国は国家ではないというわけですが、これは村田晃嗣のようなお抱え学者が言うことであって、デリダ派の脱構築主義者が言うことではないでしょう。

こうしたフランス知性の体たらくに、僕は愛想を尽かしつつある。今日もなお興味深い発言が期待できるのはエチエンヌ・バリバールぐらいで、彼の弟子筋にすら、ろくでもない輩しかいません。

「ダメになった」ヨーロッパ思想

小泉:そもそも米国が「対テロ戦争」を呼びかけ、フランス政府も「戦争」を名乗っています。ISの新しさとは「国家」を名乗ったことなのですから、「戦争かどうか?」を語ること自体が、情勢ボケしています。ナンシーを見ても、ヨーロッパ思想がいよいよダメになったことがよくわかります。

フランスは、マリやシリアに軍事介入し、とっくに戦争状態に入っています。誰から狙われても文句は言えないはずです。しかも「国家」を名乗るものを敵とした古典的な「戦争」状態に入っているのですから、今回の襲撃事件は「無差別テロ」ではなく、どっちもどっちの「戦争行為」でしかありえません。だから、事件について語るなら、「フランスもISもダメだ」と言うか、両方ともOKだと言うしかない。

その上で、極東の地にいる私から見れば、ISとの戦争は、国際紛争などではなく、欧州近辺の「地域紛争」にしか見えません。ロシアとトルコとEUが、アラブの春の頃からの武器輸出を含めシリアに介入し続けているわけですが、そんなものは世界とは関係のない喧嘩です。「勝手にやっとけ」って思うだけです。

実際、オバマ大統領は、中東地域から少しずつ手を引こうとしている。11月、米軍筋から次のようなリークがありました。「シリアを統治するには、地上軍投入は不可避。前線部隊10万人、後方支援10万人、合計20万人が必要」とです。しかし、そんなことができる国はどこにもない。だからアメリカは手を引くべきだと示唆しているわけです。ここにきて、軍部もイラクから引きたがっているのです。

この間、政治家が戦争を煽っては、軍部も乗っかるわけですが、当初の見込み通りにならず膠着した軍事情勢のなかで、軍がお手上げになる、というパターンが繰り返されています。シリアについても、全面占領して統治責任を果たすことなどはしないし、できない。やることと言えば、内戦を継続させて、空爆という無差別殺戮をやって、事態を膠着させることだけです。イラクもスーダンもマリも同じです。腹立たしい限りです。

こんな欧米を、思想的にも政治的にも支持するわけにはいかない。今の紛争はヨーロッパ半島界隈で起こった地域的な紛争であり、帝国主義と旧植民地の争いにすぎないと見るべきです。

編:フランス政府の主張を批判的に観る人が少数に留まっている理由は?

小泉:オランド大統領が率いる社会党政権だから批判を控えるという事情があるのでしょう。でも、湾岸戦争だって、イギリス労働党=ブレア政権がやる気満々で参加した戦争です。米国でも民主党政権が開戦に踏み切るのは、繰り返されてきたことです。国家は、国際情勢が緊迫すればあからさまな暴力装置として機能するわけで、時の政府が左翼か右翼か、社民かどうかは全く関係ない。そんなことを考慮する必要は全くなく、徹底して批判しなければいけないのに、それができないのがフランス左翼の実情でしょう。

極右=国民戦線(ルペン党首)が勢力を伸ばしていますが、かつてのドゴールのように保守・右翼・反動が戦争を止める場合だってあるのです。国内政治の争いと国際政治の争いは区分して考えないといけない。フランス左翼の多くは、国民戦線との対抗上、オランド批判を抑えているのでしょう。

このことは、日本の民主党政権、あるいは来たるべき(?)リベラル政権をどう評価するか、という話と同じです。民主党は、安保法制の主要部分に賛成している議員の方が多い。いずれ内戦化している南スーダンにPKOを出すことになるでしょうが、民主党やリベラルが政権に返り咲いても出兵するでしょう。

一種の「前衛主義」    としての安倍政権

廣瀬:自民党でも民主党でも似たような政策になるという事実は、TPP参加交渉や原発再稼動がどの政権の時代に始まったかを振り返れば、誰の目にも明らかです。これは、資本と労働、経団連と連合とが今日では同じ利害を共有してしまっているということに関わる問題だと思います。

連合は原発再稼働にも反対しませんでしたが、安保法制化についても、「国民の理解が進んでいないまま強行採決されてしまった」という意思決定プロセスのあり方について反対しているだけで、安保関連法の内容そのものにはむしろ賛成しています。連合のこの姿勢は、しかし、ある意味ではたいへん理性的で、納得のいくものです。

衰退の一途を辿る日本の産業資本において今日、唯一「伸び代」が残されていると言えるセクターが軍需産業にほかならないことは、誰の目にも明白です。また、世界的にも消費が劇的に減退し、財のマーケットが縮小し続けているなかで、唯一、消費を再活性化させ生産の維持を支え得るのが戦争であるということもまた理性的に考えれば、誰にでもわかることです。「雇用を守る」ためには、安保法制化と戦争とは必要不可欠なものなのです。

安倍首相は、安保法採決の際に「確かに国民の理解が十分に進んだとは言えないが、だからこそ逆に、自分たちには、日本の自衛という問題についてとことんまで考え抜く責任があるのだ」といった旨の発言をしました。これは、連合との関係で言えば、あなた方の批判は真に「批判」の名に値するほどのものではないし、それはあなた方自身が一番よくわかっているだろう、といったことでしょうが、いずれにせよ、この発言のポイントは、その一種の前衛主義にあります。すなわち、大衆はいまだに「高度経済成長時代」の幻影」に囚われており、軍需産業の発展や戦争あるいはその「脅威」なしにも日本の産業資本はやっていける、雇用は守り得る、賃金を通じた再分配も維持できると思い込んでいるが、現実はもはやその限りではまるでなく、したがって、そのことをしっかりと認識し、その認識に基づいて必要な制度を構築することこそが我々リーダーの責務であるといった前衛主義です。

国会前のそれをはじめとした安保法反対運動、SEALDsのメンバーなどの若者たちを前にして、おそらく安倍たちが思っているのは、それでは皆さんは、三菱、川崎、東芝、IHIといった大企業、また、その下請け企業が軒並み倒産してしまい、皆さんは自身はともかく、皆さんの子どもたちがどこにも就職できなくてもいいとほんとうに思っているんですかといったことでしょう。

実際、今回の安保法反対運動の少なくともその主流派においては、経済の問題は完全にペンディングにされていたように思います。経済的「基底」から遊離した、純粋に「政治的な」運動だった。より精確には、「基底」に根差さないということこそが安保法への反対を可能にした。

安保法反対運動のうちその名がよく知られた組織のうちで、「基底」に深く根差したかたちで闘いを展開しようとしたのは、「ママの会」だけだったのではないか。「武器輸出を国家戦略として進めるべきだと経団連は提言しているが、そんな血みどろのやり方でしか経済を持ちこたえさせられないのであれば、そんな経済はいらない!」(9月14日、国会前スピーチ)といった彼女たちのロジックが、運動全体において共有されていたとは、やはり言えないように思えます。

「基底」に立脚すれば連合のように賛成せざるを得ず、反対するためには「基底」を埒外におくほかない。必要なのは、「基底」に深く根差しつつなお反対論を構築するためのロジックの創出であり、その共有です。そのためには、資本制システムの主軸をなす資本形態が産業資本から金融資本に移行し(アベノミクス)、この移行に伴って産業資本それ自体も金融資本をモデルに再編されるなかで(第三の矢)、資本にとっての民衆が、搾取し続けるために生かしておくべき「労働者」とその予備軍ではもはやなく、死ぬまで収奪し尽くすべき「奴隷」とその予備軍になったということ、すなわち、民衆の「死」が資本の延命のための新たな条件に位置づけられたということを認識する必要があるでしょう。

ママの会の人々が「血みどろの経済」と呼ぶのは、まさに金融資本を主軸としたそのような今日の資本主義のあり方、その傾向のことだと思います。「死」のこのリアリティに深く根差して政治闘争を展開できるかどうか、ここにこそ今日の課題はある、とぼくは思います。

小泉:安倍政権を単なる反動と見てはいけません。安倍首相は、昨年の春闘で経団連に賃上げを要求し、携帯電話の値下げも要請したのです。貧困層に一時金3万円をばらまく再分配も計画しているのです。元慰安婦問題でも政府間交渉を妥結させはしたのです。それを単なる選挙対策や単なるリベラル分断と見るべきではない。もっと真剣かつ深刻に考えるべきです。

びっくりしたのは、経団連に賃上げを要求した時に、「企業の内部留保を出せ」と言ったことです。それは、共産党だけが言っていたことです。その共産党と同じことを資本家に要求しているのです。また、安倍政権は、リベラルや社民が言っている再分配政策なるものを先取りし、諸君は口先だけで実行できないことを私はできると示しているのです。

安倍政権は、反資本であり反貧困であり反排除です。まさしく国家社会主義者として、「軍需産業で労働者の雇用を守る」とも主張しているのです。

そういう安倍政権と戦うからには、新たな戦線を開かなければならないに決まっています。民主と共産が連合したところで、数的に勝てないだけでなく実質的に何も変えられません。それくらいなら、議会政治のレベルでは、自民党への加入戦術でいいと思います。議会内闘争のレベルでは、自民党に手を突っ込まないと何も変わりません。

ただしぼくは、議会や政府構成なんてどうでもいいいと思っています。大事なのは、議会外でどのような対決線を引き直すのかということです。従来の社民的・リベラル的スローガンを安倍が先取りする時代なのですから、社民・リベラリズムに展望があるはずがない。

暴動こそが未来を拓く

廣瀬:シャルリ・エブド事件のとき、世界中の多くの人々が「私はシャルリ」だとしてシャルリ・エブド編集部の人々への自己同一化を表明しましたが、同誌の生き残りはこれをあからさまに迷惑がっていました。死んでしまった連中も含めて彼らは、ほんとうは、「私はシャルリ」だとかほざいている有象無象よりもずっと、自分たちは襲撃実行者たちに近いと言いたかったに違いありません。襲撃者たちが「テロリスト」なら、オレたちだって「テロリスト」のつもりで雑誌をやってきた、と。

シャルリ・エブドの連中からすれば、襲撃者たちの問題点はその過激さそれ自体ではなく、過激さがイスラームに回収されてしまっていることにこそある。脱コード化の過激さがイスラームによってそっくりそのまま再コード化され、行儀のいい表象に収まってしまうことこそにある(翻って、自分たち自身の過激さも「反イスラーム」によって再コード化されしまっている)。

イスラーム研究を専門とする政治学者オリヴィエ・ロワも、「世間ではよく『イスラームの過激化』ということが語られているが、それは事実としても間違っており、実際に起きているのは『過激性のイスラーム化』だ」と指摘しています。社会生活を営むなかで過激化した人々が、彼らの生きる環境のなかで、社会に対して闘う手段として見出し得たのがイスラームだったというだけで、もともとイスラーム教徒だった者がその教義を学ぶなかで過激化したわけではない、ということです。

大抵の場合、再コード化(フェリックス・ガタリなら「ミクロファシズム」とも呼ぶでしょう)を伴って現象してしまうというのは事実だとしても、しかし、過激化する者たち、とりわけ、そうした若者の出現が後を絶たないというのは、資本に攻めを独占され、守りすらままならない今日の八方塞がりの状況にあって、ぼくにとってはやはり希望であり、よい知らせです。

小泉:フランスは社会保障制度が充実しているとよく言われますが、社会政策・社会事業を充実させたのは、若者の暴動です。パリ市郊外の若者暴動が社会問題として語られ、危険な階級に対する社会防衛の必要性が認められているからこそ、暴動の根源的対策としての社会政策が、政治家やインテリに受け入れられているのです。無論、暴動を起こす側は、そんなことを要求しているわけではないのですが、支配層をして、社会の安定のために社会政策を充実させないといけないと考えさせているのです。それは支配層が支払う講和のための賠償金・和解金のようなものです。この内戦的な構造をよく見ないといけません。

日本で貧困層に金が回ってこない理由は、暴動がないからです。そこで、最近の日本の陰気な犯罪は、ほとんど非正規雇用労働者の関連なのですから、例えば、老人ホームで介護福祉士が高齢者を突き落とすような事件についても、労働問題として語ってやればいいのです。持たざる無産者が、有産者の高齢者に復讐していると語りなおすだけで、支配者層は恐れを抱くはずです。そのように内戦化しないと、金は引き出せません。

日本では、犯罪という形で単発的に孤立して暴動が起こっている。ところが、日本のインテリには、そのあたりの感性とかセンスが全く消え去っている。そこが怖い。かつては、「あらゆる犯罪は革命的である」という感覚がありました。一度はそう考えてみるべきである、という感覚です。その程度の「常識」すら失われていることが、日本の情勢を悪くしています。フランスなど欧州では、「不穏で危険な過激派がいる」と思わせることで、引き出すべき金を引き出しているのです。

法の外で発動される権力

廣瀬:ギリシャでは、15年1月の総選挙、同年7月の国民投票と、制度的手続きを通じて2度にわたり、緊縮策に対する国民の反対意思が表明されましたが、しかし、緊縮策は今日もなお続いています。ギリシャでの事態のこの推移と酷似した例が、沖縄・辺野古基地問題です。沖縄でも14年の名護市長選挙、衆院議員選挙、知事選挙と、やはり制度的手続きを通じて3度にわたり、辺野古基地建設に反対する住民の意思が示されましたが、基地建設はいまもなお「粛々と」進められています。

ツィプラス政権の元財務相ヤニス・バルファキスはユーログループでの交渉の際にドイツの財務相ヴォルフガンク・ショイブレから次のように言われたと、あるインタヴューで語っています。「選挙のたびにその結果に応じて合意を白紙に戻していたら、何のための合意したのかわからなくなる」。安倍自公政権の主張もこれと同じです。我々は仲井眞前知事とすでに合意している。選挙があるたびにその合意を見直していたら、何のために前知事と合意したのかわからなくなる。選挙でも民主主義でもお好きにどうぞ、我々は我々のやりたい通りに坦々とことをすすめるだけですから、というわけです。

フランスの哲学者ジャック・デリダは90年代初頭に刊行した著作『マルクスの亡霊たち』のなかで、脱構築という自分の哲学方法は今日ではもう時代に完全に追いつかれてしまった、「時代はたがの外れたものになってしまった」(The time is out of joint.)と残念がっていましたが(脱構築とは、ジョイントされているように見えるものにその根源的な脱ジョイント性を見出すという政治的射程をもった哲学操作のことです)、ギリシャや沖縄の例に見られるのは、まさにその「たがの外れた」権力行使、権力が制度や法、民主主義の外で行使されるというさまであり、そうした「法外な」権力行使が、いっさいの隠蔽なしに、開き直ってあからさまに行われるさまです(「ジョイントが外れているから何だって言うんですか」というわけです)。

小泉:安保法制反対運動の中で、民主主義や立憲主義が自明のスローガンになり、疑われなくなっているのは、非常によろしくない状況です。

民主党は「熟議デモクラシー」を言い、「ラディカルデモクラシー」はインテリのコンセンサスになっています。欧米でも「左翼は民主的でなければいけない」とされている。しかし、政治思想史を振り返ればすぐにわかりますが、レーニンによるブルジョア民主主義批判だけではなく、「民主主義」に対する懐疑や批判であふれているのです。政治において、生徒会民主主義のようなものが成り立つわけがない。

債務問題で言えば、経済民主主義など二重三重の意味で幻想です。大衆の意思がどうであろうと、国家権力には金融・財政・安全保障といった独自の領域、大権、最高権力の領分がある。愚かな大衆がどんな選挙結果を出そうが、賢い統治者が官僚と一緒になって、正しい選択をする。知恵のあるNPOとも連携しながら賢い知を出すから、下々の大衆は黙って聞け。そんなことをいちいち選挙にかけていては、何も進まない。ということです。

しかも、私たちは、民主主義の現行選挙制度の中で議会の過半数なんて取れっこありません。個々のテーマで国民投票や電子投票を要求したりもしていますが、それにしても過半数など一時的なものにとどまり、権力は、そんな「民主主義」はお構いなしに行使されていきます。それ、は不変の歴史的な制約条件です。

その条件のもとで、何をどう変えるかを考える場合、議会で多数者を取るというような話ではなくて、力量のある少数者がどう対抗するかという話にしかなりません。辺野古にしても、国政選挙結果は「辺野古基地反対」になってはいないのですから、沖縄県民のマイナーな戦いにならざるをえない。

その文脈で沖縄独立論も出ているわけです。中国との関係では、沖縄と台湾と香港で連合国を作りましょうという構想もあります。夢物語のようなものですが、仮に夢を語るなら、それを実現するにはどうすればいいかを考えるべきです。ただし、もし沖縄が本気で独立を宣言すれば、ISよりひどい空爆に曝されることになるでしょう。それくらいの覚悟をもってリアルに夢みなければなりません。

沖縄独立を夢の大義としてみるとき、何が大事で何が不必要なのか、誰が敵で誰が味方か、をゼロベースから考え直すべきであるということです。ひょっとしたら、沖縄独立にとっては安倍首相の政策にもいいところもあるかもしれないのです。安部首相は、将来的に対米従属を断ち切りたいと思っている可能性がある。そのとき、自衛隊を海外派兵するなら、米軍基地を自衛隊基地に差し変える道もあり得ることになります。

現実の政治過程ではいろいろな選択肢があるのですから、沖縄が日本の支配をまぬがれるために、もっと多くの選択肢を語るべきだし、もっと政治主義的に発言するべきです。ともかく、沖縄は、知事も含めて最大限の抵抗を試みています。これは数少ない希望の一つです。(次号へ続く)

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